三宅隆文さん。サンマルク東南アジア社長(前編)

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Mr. Takafumi Miyake(三宅 隆文)

年齢:35歳 /居住国:シンガポール /言語:日本語・英語・フランス語/職業:SAINTMARC SOUTH EAST ASIA PTE.LTD. Managing Director(サンマルク東南アジア・社長)

チョコクロで有名なサンマルクカフェ。レストランやカフェなど約730店舗を展開するサンマルクが東南アジア進出の1号店をOPENさせたのは2011年のこと。東南アジアの本部と位置付けるシンガポールで外部から経営者に抜擢されたのが三宅隆文さんです。サンマルク東南アジア社長就任までの貴重な人生経験や人生観と経営理念についてお聞かせいただきました。

『三宅隆文さん。サンマルク東南アジアの経営は自分の人生の集大成』

~プロフィール~
フレンチ・レストランのソムリエからフランス・ワイン留学を経てホテルマンとしてソムリエ職を極める。その後、資産運用会社の新規事業に社長秘書として携わり大成功。夢のような転身生活を送ったがサブプライム危機でバブル崩壊。ニュージーランドに留学後、シンガポールへ。飲食業に従事した後、夢の実現のためGeneral Managerとしてイタリアン・レストラン運営に参画し大好評を博する。2011年さらなる理想を追求し独立してマレーシアに開業準備を始めていたが、店舗物件契約寸前にサンマルクとの出会いがあり東南アジア事業の社長に就任。

‐ シンガポールに進出したサンマルクについてお聞かせください。

サンマルクは、1991年当時31歳だった現在の社長の片山が創業しました。親族が岡山で経営していた製菓事業会社の中にレストラン事業部を立ち上げた後、分社化してスタートさせた会社です。2011年、昔から縁の深かった経営コンサルタントが海外進出を助言したことから東南アジアへの進出が決まり、シンガポールに第1号店をオープンさせました。

sm4‐ サンマルク東南アジアの社長に抜擢されたのはどのようなご経歴が認められてのことでしょうか?

私はもともとソムリエで、始めは神戸のフレンチ・レストランに4年ほど勤めていました。23歳の時にはワインを極めたい一心で一年間フランスに留学しシャンパーニュとブルゴーニュのワイナリーで本格的に学びました。その後、東京のフォーシーズンズ・ホテルに勤務しコンクールなどにも出場するなどソムリエやホテルマンとしてのキャリアを積んでいましたが、ご縁あって資産運用会社で不動産投資にも携わりました。紆余曲折があってシンガポールで30代をスタートさせ、ポッカフードに入社してからは「とん吉」や「カフェドマーニ」のオペレーションを担当して従業員150人位をまとめ、シンガポール人と働くノウハウを学びましたし、その後立ち上げたイタリアン・レストランは好評を博し、1年も経たずに4号店まで拡大した事業展開に携わりました。さらに、サンマルクと出会う直前までマレーシアでの新規レストランの開業準備を進めた経験もあり、全ての経験をバランスよく活かし、自分の人生の集大成として東南アジア地域一帯でのサンマルクの経営に邁進しています。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA‐ 大きなターニングポイントを幾度となく経験されていらっしゃいますが、20代はどんな時代でしたか?

4-5年ごとにターニングポイントがあった貴重な時代です。この業界で凌ぎを削る基礎体力を培ったのは最初の4-5年でした。神戸のフレンチ・レストランでは一日16時間くらい働いて体力だけでなく心構えや全ての基礎を学びました。

フォーシーズンズ・ホテルでは、組織論や人心掌握、組織の在り方を深く学びました。勤務して一年が経った頃、世界中のフォーシーズンズを渡り歩いてきた外国人のディレクターが着任し、面談で「貴方のように世界を股にかけて仕事がしたい」という願望を話しました。すると、ワインを学んでいたフランス語の本を捨てられ翌日には英語の本をどっさり渡されて「自分のようになりたいのならワインの本は捨てて本気で英語を勉強しろ」と言われました。「世界では英語が出来なければ通用しない。適当な英語を話す人間は大勢いるが、それでは意味がない。事業を前に進めていける英語力、経営課題について事業戦略会議で発言できるレベルの英語力が無いと英語が話せるとは言えない。やるなら本気でやれ。できなければどこまで行ってもローカルスタッフだ」と断言されました。フォーシーズンズ・ホテルは世界につながる扉だと意識する原点となりました。日本で外資系企業に働いている自分はローカルスタッフだということに人生の早い時点で気付けたことは幸運でした。日本では先進国の日本人として互角の意識でプライドを持って外資系企業で働く人も多いけれど、外資系企業の経営陣にとって日本人は勤勉なローカルスタッフでしかないのですよね。欧米人に使われているローカルスタッフでしかない。気付いてからは悔しいから対等に仕事ができるよう必死で勉強しました。自分自身の着眼点が物から人へシフトし、それまでワイン一色だった価値観が変化して英語を学ぶと同時に組織を学んだ4年間でした。

一流ホテルには一流の人々、様々な金持ちが集っています。一泊5-6万の部屋に泊まり、一本3-4万円のドンペリを湯水のように次々あけるようなお客様に大勢出会いました。その頃のお客様の一人で資産運用会社・社長から新規事業に誘われ、28歳で社長秘書に転職しました。当時アメリカ・ロスの不動産に投資してハイツ99棟のオーナーとして非常に安定的に収益拡大を続け、さらにカナダの不動産投資会社からハワイに全スウィートのホテルコンドミニアムを作るから一緒にどうかという話があり、新規事業の基幹ビジネスに据えて大成功を収めました。世界不動産短日売上げでギネス記録になるほどの成功で生活は一転。ウン十万するスーツを着て世界をプライベートジェットで移動するのが日常となり、成田からニューヨークに飛んでセントレジス・ホテルの創業者やフォーシーズンズやペニンシュラ・ホテルの経営陣とミーティングした後ロスに飛ぶような華やかな世界に身を置き、一介のホテルマンから天にも昇る転身をして・・・今思うと、相当嫌な奴になっていましたね(苦笑)

でもそんな生活が永遠に続くはずもなく、サブプライム危機のあおりを受けてバブル崩壊、ありとあらゆるプロジェクトがストップしてしまいました。元々何も無い資産が表面上膨れ上がっていただけなので、一瞬にして全てが水の泡となりました。青山のAVEX前に借りていたショールームの高額な家賃も重荷になり、ショールームには誰も来ないし手付流しも続出するし・・・本当に地獄で、やはりこんな自分にとってハイレベル過ぎて身の丈に合っていないことをやってはいけない、真っ当な道を歩まなければならないと目が覚めました。

仕事がなくなり困ってしまい、フォーシーズンズに戻りたかったけれど、浮世離れした生活をしていたことが知れていたので、今さら地道にホテルマンが出来るわけがないと門前払いされました。自分で何ができるか考えても余りに急な変化に何もできないままで・・・結局現実から逃げるようにニュージーランドに留学しましたが、打って変わっての貧乏生活。ちょうどSNSがメジャーになり始めた頃で、かつてのホテルの同僚は皆どんどん出世したり、続々と日本進出する外資系ホテルにうつって良いポジションに落ち着いたりしている様子が日々伝わってくる一方で、自分は月々$300程の生活費でゴキブリの出る家での5人暮らし。本当に惨めだしお金は無いし…自分は一体何をやっているのだろうという焦りばかり募る日々で・・・20代最後は先のことが全く見えず、自分の人生に脈略が無いことを嫌というほど痛感した一年でした。

‐ 天から地に落ちるような大きなターニングポイントにNZ留学を決断したのは何故ですか?

それまでの不動産投資事業に携わる中で契約書に関して等、弁護士や会計士と話す機会も度々あり難しさや重要性は身をもって知っていたので、せっかく積み上げてきた英語のレベルを適当に終わらせる気になれず、きちんとしたレベルまで頑張っておきたいという気持ちがあったからです。英語の勉強は一つ山を越えて喜んでいると必ず次の山にぶつかる、そしてまたもうひと頑張りして自信をつけるとまた次のレベルの山に当たることの繰り返しですよね。実際にNZでの勉強も専門用語のレベルが高すぎてもう聞きたくないと思うほど大変でした。

‐ 30代に入ってどのような展開がありましたか?

留学したニュージーランドが気に入ったので家族を呼び寄せて移住しようと思ったのですが、妻のシンガポール転勤が決まったため、子供の教育環境を考えるとシンガポールも良いかもしれないと考え来星しました。実は、それまでアジアには全く興味が無く自分の意図しないことでした。しかも来星時はリーマンショック後で景気が悪く、企業が人員整理をしている最中だったため全く仕事がみつからず、半年間は専業主夫をして子供の面倒を見る生活で・・・当時は夫婦喧嘩が絶えなかったですね(笑)。

ようやく知り合いに紹介して頂き「何でもします」という心意気でポッカフードに入社しました。ニュージーランドでの一年が金の亡者となって現実離れしていた感覚を洗い流してくれて愚直に当たり前のことをする普通の感覚にリセットできていたので、心から会社に貢献したいという気持ちで仕事ができました。毎日感謝の気持ちをもって仕事をしていたことは周囲にも伝わったようで、結果的に短い期間で辞めて新規事業を始めることになっても快く送り出して頂きました。

miyake5‐ その後が夢を実現させたイタリアン・レストラン経営ですね?

「エノテカ・オペレッタ」は波乱万丈な20代の経験の集大成でした。2010年9月、32歳の時に優秀なオーナーとの新規事業の構想がまとまり、イタリアで修業を積んだ腕の良い日本人シェフと3人で日本人向けではなく、本場のイタリア人はじめ欧米人で満席になるようなレストランを目指し、接客も料理もインテリアも雰囲気全て欧米人が寛げて認めてもらえることを意識して開業しました。実際にターゲットとしていたイタリア人で満席になった時には目標を達成できた喜びから心底嬉しくて涙が出ました。

ただ、1年が過ぎるころには3者3様運営方針の相違が顕著になり、全て自分でコントロールできる土俵で勝負するために自分の理想を追求して独立し、別のパートナーと共にマレーシア(KL)で新たなレストラン事業の計画を始めました。

‐ 自分の理想を追求する新規事業の物件契約寸前でサンマルク東南アジアの社長就任の話を頂いたということは相当に迷う気持ちがあったと思いますが、決め手は何だったのでしょうか?

サンマルクの幹部の方とお話したら意気投合し、企業理念に大きく共感できたことです。「利益を上げることが全てではなく、美味しい料理を提供することが全てでもない。赤の他人が一緒に働く意義はお金を稼ぐことだけではない」と。それまで自分が理想とする概念を若くて言葉にできずにいたけれど、サンマルクが企業理念に掲げていることそのものだったことに感銘を受けました。

自分がこだわっていたのは、結果としての利益・・・社会貢献でした。すべての事業は社会貢献につながっていて、その対価としてお金を頂戴している、さらに、その利益は将来のコストになっているという考えです。数か月~1年程度だけ人気が出るようなスターシェフのいるレストランは簡単につくれるけれど、それが1年で終わってしまえば1年しか社会貢献できない。永続して社会貢献し続けるには企業を永続させる必要があり、そのためには利益が必要という発想です。それまで納得いかなかった結果ありきの利益の追求による事業展開では従業員にインセンティブを与えて利益をもってこさせていましたが、そういうことは愚の骨頂だと感じていました。

※後編に続きます

(取材・文:佐竹伸子)