「生きる力のある人間」を育てていきたい。教育者として発信を続ける森山正明さん

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Mr. Masaaki Moriyama (森山正明)

年齢: 44歳 /居住国: シンガポール /言語: 日本語、広東語、中国語、英語 /職業: Eishinkan Learning School, Director(英進館シンガポール校現地代表)

「自立した社会人の育成」を掲げる学習塾、英進館シンガポール校代表の森山さん。北京と香港で塾講師を務めた後、香港とシンガポールの日本人小学校で教鞭を取り、2013年より現職。また「大人の社会科見学シンガポール版」を主宰し、シンガポール在住の日本人に新たな出会いや歴史・社会を学ぶ機会を提供している。写真家としての一面も持ち、その腕前は朝日新聞報道写真月間賞・シンガポール日本人会報誌「南十字星」2013年大賞など折り紙つき。多方面に活躍の場を広げている森山さんに話を聞きました。

  • 『まず行動を起こすこと。人に会って話すこと。』

mo5-はじめに森山さんの教育者としての理念についてお聞かせください

海外で暮らすご家族は総じて教育熱心で、保護者が子供のために行動しようという意識が高いため、能力も可能性も高いお子さんが非常に多いと感じています。海外で多国籍・多民族・多言語のフィールドで生活し刺激も多いことから、必ずや世界で活躍する人材が育つと期待し、指導しています。低学年のうちに子供自ら「学ぶことは楽しい」という感覚を養っておけば必然的に知識欲が高くなり、受験時期までに自ら学ぶ姿勢が育まれるものです。
今は何があるか分からない時代ですから、ぶつかった壁に自らよじ登り乗り越える力、生きていく力、強い精神力を養わせたいと考えています。「受験は必要悪」という意見もありますが、自分の限界まで頑張って壁を超え目標を達成するのは大事なことで、その経験は一生の糧となります。「受験で燃え尽きた」という人もいますが、決してそれで終わりではありません。私は受験ほど公平なシステムは無いと思っています。同じスタートラインに立ち、自分がどれだけ頑張ったかが試される制度だからこそ、競争をしっかりやっておくことで、後々また壁にぶつかった時、過去の経験が自信となり再び頑張ることができるのです。
世の中はますます生きる力が試される時代になっています。日本人でなければできない仕事は減り、世界中の人と仕事を奪い合う時代が始まっています。日本の企業だって利益を考えたら日本人に限らず能力のある外国人をグローバル採用するし、仕事自体イノベーションが進み、機械がこなせる事も確実に増えています。これからは、新たな仕事を創り出す能力も大事でしょう。一人でも多く「生きる力のある人間」を育てていくつもりです。

‐初の海外校を開校するための準備はいかがでしたか

大変でしたね。でも新しいことを自分で切り開くのは遣り甲斐があり楽しくもあります。英進館では、関東で人気を博している「花まる学習会」と提携しているので、まずはその教育メソッドを徹底的に学ぶため研修に参加しました。昨年4月から7月まで日本に滞在し、合宿のようなスタイルで厳しい研修を受け指導者としての資格を取得しました。日本での研修後、8月にシンガポールに戻って本格的に開校準備に取り掛かり、教育省への申請や職員のビザの申請、教材や設備など様々な準備をして、2014年2月にリャンコートの2階に開校しました。
既に昨年5月頃からコンサルタント会社を通じて準備を始めていましたが、いざ開校となると自分でどうにかしなければいけないことも多く苦労しました。今年2月から新小学2,3年生を対象とした「花まる学習会」の授業と新4年生を対象とした英進館中学受験コース・進学コースの授業をスタートしました。4月からは、新1年生も加わり、さらに多くの生徒が通っています。低学年向けの教育プログラムは独自の授業展開が特徴で、1クラス15名、教室内には学年ごとのグループ席を設けて3学年合同のクラス編成で授業を行っています。今後はセントーサ島の水族館の教育プログラムや工場見学会、野外でのアクティビティーを取り入れるなど、低学年のうちに様々な体験学習をすることで「生きる力・生きていることを楽しいと感じる心」が育つよう、シンガポール校ならではの特色ある学習機会も取り入れていきたいと思っています。

my1‐ご自身の子供への教育についてはどのように考えていますか

現在、妻と10歳の娘と7歳の息子が香港で暮らしています。これからの時代、外国語はコミュニケーションの道具として絶対に必要なので、きちんと学ばせたいというのが夫婦共通の認識で、子供たちは英語を主体にして中国語も学べるローカル校に通っています。ローカル校は宿題や試験が多くハードですが、将来の選択肢を広げるために頑張っています。シンガポールに来る前年に補習校の設立準備に関わったのも、我が子を含めローカル校やインター校に通う子供たちの日本語教育や日本文化の継承に関する不安を解消するためでした。自分の子供に必要な環境は整えるべきだし、もし今あるものの中に無ければ、それを作ってでも提供するのが大人の仕事だと考えての活動でした。同時に、自ら行動し物事を創造することの大切さを子供たちに実践してみせることができたと自負しています。

‐どのように外国語を習得されたのでしょう

外国語は、その国の人とコミュニケーションしたいという気持ちがあると習得できるものだと思います。もともと英語はあまり得意ではありませんでしたが、日常生活や仕事で困らずにコミュニケーションが取れるレベルまでにはなりました。また、バックパッカー時代は旅に必要な中国語の日常会話を学んで話し、香港に住んでいた間は広東語を学んで生活の中でコミュニケーションを楽しめるレベルになりました。シンガポールに来てからは中国語の学習を再開し、Skypeを利用して自分の都合に合う時間に気に入った先生を選んでマンツーマン方式で学んでいます。自分のペースで楽しく学べるので長続きし、どなたにもお勧めの勉強法です。香港に比べて、シンガポールでは中国語のできる日本人が少ないので、マスターできれば一目置かれ、自分の強みになると思います。また、シンガポール人や中国語を話す外国人と仲間意識をもって交流できるメリットは大きいし楽しいですね。言語でも何でも自分の得意分野・一芸があると精神的にも強くなり人生に余裕が出てくると感じているので、どんな環境にいても幾つになっても、学ぶ習慣を大事にしていきます。

‐海外に出たのはどのようなきっかけでしたか

学生の頃から教員志望で、将来視野の広い先生になりたいという思いが根底にあったため、よくオートバイで日本全国をツーリングし自分の目で様々なことを見たり聞いたりしていました。良い体験ができましたが、日本だけではどこか物足りなさを感じることもありました。当時はバブルの終焉期で就職状況は悪くなかったのですが、まだ何かやりたいという気持ちが残っていたため就職活動はせず、先生になってから自分の経験と自分が撮影した写真をもとに子供たちに色々な世界の話を伝えるため、卒業後とにかく海外に出てみることにしました。
当初はワーキングホリデー制度でカナダかオセアニアに行くことを検討しましたが、あまり英語が得意ではなかったことと、もともと歴史が好きで以前東京都の高校生選抜400名の一員として、北京・上海・天津を2週間かけて船旅し現地の高校生と交流した縁があったので中国に渡ることにしました。喜多郎の音楽やテレビ番組の影響から、憧憬の強かったシルクロードの旅を始め、その後は三国志の世界を巡り、ウズベキスタン・カザフスタン、ウイグル族の暮らす地域も訪ねました。「地球の歩き方」片手に行き当たりばったりの旅でしたが本当に面白かったですね。その後香港まで行き、シンガポールからタイ経由でミャンマーやラオス、カンボジア、ベトナムなどの東南アジアを旅行し撮影しました。3ヵ月旅行したら3ヵ月日本にいて次の旅行の資金作りをし、さらに撮りためた写真をフォトライブラリーに預けて販売、その後また3ヵ月旅に出ることを繰り返して、アジアを中心にヨーロッパ、中南米とまわりました。個人的には、現地の人とのコミュニケーションが楽しいアジアの国々に最も魅力を感じました。

my2G5105836X_Entry1‐教育者になった経緯についてお聞かせください

世界を旅し写真を撮る生活に満足して日本に戻り、就職するつもりで教員採用試験を受けたのですが、残念ながら受からず…。それなら塾で子供たちを指導する道を選ぼうと考えて学習塾に就職したのが、仕事として海外に出る道に繋がる転機となりました。就職した学習塾は北京・上海・大連・香港・台北に教室を持っていて、たまたま北京に欠員が出て後任を必要としていたので名乗りを上げたところ、就職して3ヵ月で北京に駐在することになりました。北京で過ごした2年間はオリンピック前の古き良き活気のある時期で、街の雰囲気はモノクロが似合う下町的印象が強かったため、よく白黒の風景写真を撮影していました。
(写真は森山さんの作品。上:「世界三大夜景 香港100万ドルの夜景」。キャセイパシフィック航空×香港政府観光局×京急百貨店主催:写真コンテスト-思い出の香港写真 香港スタイル賞受賞写真。下:シンガポール日本人会・会報誌「南十字星」2013年大賞作品。)

将来的に先生として世界を語れるようになるべく世界中の色々な場所で色々な経験を重ねたいという願望があったため、北京の学習塾で2年勤めた頃、会社に異動願いを出し香港に転勤しました。その後、納得のいかないことがあり別の学習塾に転職をしましたが、そこでも理不尽に思うことがあり転職を考えていたところ、タイミングよく日本人学校の求人があり2004年から現地採用の小学部の教員として就職しました。実は2003年にSARSが流行し、一時的に生徒数が激減したため2004年度の派遣の教員が減らされたのですが、予想より早く状況が改善され生徒数も戻ったため教員の数が足りず、現地採用で補充する必要に迫られての特別な求人でした。良い仕事・良い環境に恵まれ7年間勤務しましたが、今度はリーマンショックの影響を受けて生徒数が減少すると体制の見直しがあり、人員整理の波を受けて退職することになりました。

※後編に続きます

(取材・文:佐竹伸子)