要潤さん。俳優として世界レベルで発信できる仕事を

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要 潤(俳優)

【プロフィール】

年齢:32歳/ 職業:俳優/ 居住国:日本/ 活動国:シンガポール、中国、アフリカなど世界中/ 言語:韓国語、英語を勉強中

要潤さんは、2001年に「仮面ライダーアギト」の主役の1人としてデビューしてから12年、今や日本だけでなく世界を舞台に活躍されている俳優です。さわやかで誠実な人柄が多くのファンを魅了し、5月には結婚も話題になりました。今回は仕事で立ち寄ったシンガポールにて、”ボーダレスワーカー”として、自らの人生の挫折やターニングポイント、同世代日本人へのメッセージなどを、赤裸々に語っていただきました。

 

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高校時代は陸上の選手だった要さん

‐要さんは現在俳優として活躍されていますが、学生時代はどんなことをしていましたか?

実は小・中・高校とずっと陸上に打ち込んでいて、全国大会出場レベルの選手だったんです。でも、高校3年の夏、400mハードルの選手として最後の大会に出場した際、不覚にもハードルを倒して転んでしまい、全国大会出場への道が閉ざされてしまったのです。その時は、それまでの人生すべてを否定されてしまったと感じるような大きな挫折を味わい、本当に落ち込みましたね。

‐目標としていた最後の大会でチャンスを逃してしまうというのは辛いですね。その後はどう気持ちを切り替えたのでしょうか?

初めて自分の人生についてじっくり考えることになりました。そして新たに俳優を志すことにしたのです。陸上での挫折がなければ俳優の道を歩むことを真剣に考えることはなく、まさに自分の人生の大きなターニングポイントだったと思います。

‐スポーツ選手だった要さんがなぜ全く違う分野の「俳優」を志したのでしょうか?

決め手は、自分の体が資本と言えるような仕事がしたいという信念でした。体力や体型・体調などを常に意識して整えておくことなど、スポーツ選手との共通点も多く、個人的には俳優業も陸上競技に似ていると感じているんです。

‐実際にどのように芸能界に入られたのですか?

俳優を志そうと決めてからは、履歴書を用意して幾つもの芸能プロダクションに送りながらアルバイト生活をしていました。そしてテレビ番組の警備員の仕事をしていた時、幸運にもスカウトされてプロダクションに所属することになったのです。

‐20代はどのように過ごしたか教えてください。

俳優の仕事を始めたのが20歳だったということもあり、役者のイロハから勉強し、仕事上の技術など全てにおいて右も左も分からない状況からがむしゃらに頑張っていた時期でした。「成熟している人間ほど良い演技ができる」と考えているので、自分の人格形成をする上で非常に重要な期間でした。

‐30代になって変わったことはありますか?

まず、役柄が変わりましたね。若いサラリーマンの役が多かったのが、子持ちの役を任されたり、平社員だったのが、役職のあるビジネスマンであったり…歳を重ねることで自分の幅が広がっていることを実感ています。また、自分を客観的に見れるようになったと思います。

‐今回のテーマは”ボーダレス”なのですが、世界に出て見た時に、「日本人」というとどんなイメージを持たれていますか?

今の日本のイメージを創ってきた方々に対して感じることですが、一言で表すと「堅実」なのだと思います。日本を心から愛し、良い意味でも悪い意味でも島国根性があり、団結力もあるしプライドもあるというイメージでしょうか。

‐ズバリ自分にとっての幸せとはどういうことだと思いますか?

自分が死んだとき、自分がどんな人生を歩んできたのか本当の自分を語ってくれる人がどれくらいいるかを意識して、そういう心のファミリーともいえる大切な人たちを自分が生きているうちに幸せにすること。それが自分の幸せに通じると考えています。

‐ありがとうございます。これから将来的にやりたいことはありますか?

今後は世界中の人に向けて世界レベルで発信できるような仕事をしていきたいと思っています。海外でも映画やドラマなどで活躍できるよう英語と韓国語の勉強もしています。世界に出て、今より多くの人が自分のことをどう見てくれるか知りたいですね。

‐突飛な話で恐縮ですが、老後はどうしていたいとお考えですか?

俳優の仕事はしていたいですね。仕事が僕の人生だから。たとえば歳をとってからまた取材を受けたとして、その時自分がどんな言葉を選んでどんなふうに語るのか…そんなことを考えると、今から楽しみです。

‐最後に、同世代の日本人に対してメッセージをお願いします!

30代といえば、仕事も順調にこなし責任ある仕事を任されるようになりながらも、先が見えず四苦八苦する人が多いと思います。そんな状況でも、できるだけ受け身でなく何事も自分で変えていくことを意識して、自分がこれまで受信してきたものを自分なりに解釈して発信していくようにしよう、そう言いたいですね。

○編集部より: インタビュー後、高校時代に経験した大きな挫折について、要潤さんの公式ページ「Kaname’s Cafe」に詳しく掲載されました。要さんの当時の心境を知る上でとても参考になりましたので、許可を頂きこちらに転載致します。

今日も夢に出てきた。高校3年の夏の大会。8台目のハードルを越えられず苦しむ夢。
そもそも夢の中では、軽快に走れないからクリア出来ないのは感覚的に分かるのだが 笑

いつも起きたら思うのは、自分のツメの甘さ。

TVや雑誌で幾度となく話して来ましたが、知らない方の為に改めてお話しすると。

僕は小学3年生から高校3年生までの9年間陸上部に所属し、その間様々な競技を経て最終的に400mハードルという種目に行き着き、高校3年のインターハイ予選に挑む事になった。
この種目は、当時の顧問の先生も学生時代に取り組んでいた種目という事と、400mが得意で比較的身長の高い僕にとっては、うってつけの競技だと先生が判断し、高校生2年の秋から取り組み出した。

香川県からインターハイに挑むには、香川県大会→四国大会→インターハイという難関を超えなければならない。
そこは、情け容赦ない熱き高校生達の本気の戦いの場だ。
幸い、僕は県大会でも上位に食い込める記録保持者だった。全高校生の夢の舞台インターハイは、グッと手を伸ばせば届かない場所でもなかった。

そして、その年の5月
香川県大会開催 予選→準決勝→決勝と通過し3位
同年、6月四国大会開催
予選→準決勝→3位通過
決勝へと向かう。

天気は雨。おそらく高校生になってからだと思うが、競技場は従来の赤土ではなく、タータンというゴム状のものになっていた。その為、雨が降ると非常に滑り易くコンディションは悪い。

しかし、予選、準決勝と土砂降りの雨の中走ってきたが、体調はすこぶる快調だ。自己ベストが出せる気が明らかにする。しかし、心のどこかで思っていた。この大会は通過点でしかない。目標はインターハイだ。と…
最悪うまくハードルが飛べなくても、6位通過すればインターハイへの切符は手に入る。そこを狙えばいい。

他校の生徒で、仲良しなのだがライバルでもあるk君とm君といつもは三人でアップをするのだが、この日ばかりは各自バラバラでアップをし、ロクに口もきかなかった。

そして…いよいよ運命のスタート時間になる。

いつものスターティングブロックのポジションに合わせて、ゆっくりとスタートポジションに両手を着き、静かに審判員のスタートのピストルが鳴るのを待つ……

位置についてぇー!!
よーーい…
パンッッッ!!

満員の大観衆からの歓声と共に一斉にスタートをきった!!
僕は渾身の力を込めて初めの一歩を踏み出した!!
陸上競技で一番キツイとされる400mハードルは10台のハードルが等間隔で並んでおり、ハードル間の歩数は選手の体型に合わせて自分達で決める。
大概の選手が15歩、13歩という奇数歩。つまり、得意な利き足だけで踏み切りハードルを越えて行く。

しかし、比較的身長が高い僕は15歩だと少し余り、13歩だと少し足りない。結果、偶数歩でハードル間を走り抜く練習を積んで来た。つまり、得意な方と不得意な方と両方使いながら、踏み切る。しかもそれは、体力が消耗される200mまでの話しで、それを通過した時点からは15歩に切り替える。

あまり他の選手はやらない特異な走法だ。
間も無く、一台目をクリア!
ハァハァ…と自分の呼吸が乱れてるのが分かる。
極度の緊張で固まった身体を必死に動かして、高ぶってるからだろう。

順調に偶数歩を使い、バックストレートを駆け抜ける!!
ゴールした時の事だけをイメージし、必死に腕を振る!!
現在単独トップ!!
後ろに選手の気配はない!!

しかし、いつもなら300mを越えたところで、ライバルのk君に追い抜かれるが、今回は違った。
200mを越えた瞬間!!

タッタッタッタッ…
という足音ともにk君に内側のレーンから見事に交わされた!!

くっ!!ヤバイ!!
自分のタイムが遅いのか、彼のスピードが早いのか…
まぁ、いい、とにかく彼に着いて行こう!
偶数歩に切り替え7台目のハードルをクリアした途端、なんと、アウトレーンからノーマークの2年生の選手が飛び出してきた!!

焦った!
ここで負けてはならない!!
スピードを上げて、偶数歩から奇数歩に切り替えた!!

アッ!!
と思った瞬間!!
…まわりの音が消え、視界は真っ暗になった

静寂

ゆっくりと目を開くと、目の前には空が見えた。
雨はいつの間にか止んでいる。

ハァハァ
自分の呼吸だけが世の中の音になって頭の奥の方で聞こえてくる。
ハァハァ
ゆっくりと頭だけを動かし、ゴールの方を見た。
ハァハァ
内側から抜き去ったk君が一位の喜びを体全体で表し、飛び跳ねている。

俺は、負けたのか…
思考停止していた頭が拒否しつつも、この現実を理解しようとして動き出している。

え、負け?
右足のスネが青くアザになって、ぼっこりと腫れている。じんじんと痛い。おそらくハードルを蹴り上げた時の傷だ。

明日からはもうあの練習グラウンドに行く事はない。しかし、後輩の指導を頼まれている。どうしようか…
明日になって考えよう。

布団に入ると、体が吸い込まれるように、悲しみと疲労と様々な感情が睡眠と共に溶けていった。
明朝になっても気持ちが落ち着く事はなく、現実と非現実の狭間をふらふらと彷徨っているような感覚だった。

そして、一日そのままの状態で授業をやり過ごし、あっという間に放課後になった。
今までなら、部室に直行し練習着に着替えるのだが、もうその必要はない。しかし、ロッカーに残した荷物は取りに行かなければ…
足取り重く部室に向かって行くと、顧問の先生が待っていた。
先生は、
「要、インターハイの夢は破れたが、おまえにはもう一つの夢がある。進学する事だ。まだ10月に国体がある。予選を走って、ベストタイムを出し、そのタイムを持って推薦入試を受けるんだ。おまえならきっとチャンスはある」

国体か…
しかし、国体は各県から1人の枠で、とても狭き門だ。
四国大会のあの調子をもう一度出せれば、ベストタイムは確実に出る…

やってみるか…
よし!

その日からまたハードルの練習を始めた。
しかしやる気になったのも束の間…
悲劇が残した傷跡は思ったよりも深かった。

どうしてもあの8台目のハードルを越えることは出来ない。
手前で失速するか、手で押し倒してしまう。飛ぶ瞬間にあの悲劇がフラッシュバックする。

だめだ…

あらゆる手を尽くした。8台目だと自分で思わせないように、スタート位置をずらして、8台目から飛ぶようにしたり、15歩に切り替えるのを16歩で飛んでみたり…
しかし、どうしても飛べない。

時間は残酷に過ぎ、あっという間に国体予選のレースの日がやってきた。
僕は明らかに気持ちが沈んだ状態でレースに挑み、案の上8台目のハードルを無理矢理越えようとして思いっきり右足でハードルを蹴り上げた。

痛い!
転んで、コースアウト…失格。
ショックの色は隠せない。

それから数日し、練習に気持ちが入らないまま、推薦入試の日がやってくる。完全に気持ちが折れてしまっている僕にも先生は推薦入試を受けさせてくれた。

推薦入試は実技試験と筆記試験の両方。
実技は400m。

これは得意だ。はっきり言って負ける気がしない。
そして、結果は1位だった。
その後、筆記試験。
これもまずまずの手応えだった。

これまでの沈んだ気持ちに、少し光が差した。また環境を変えて新しい気持ちで陸上をやればいい。なんなら、種目を変えて練習しよう。そうだ、400mに力を注げばいい。きっと良い結果が出せる。

僕は合否を心待ちにした。
数日後。

顧問の先生から呼び出しがあった。合否の結果だ。
先生は言った。
「実技も筆記も手応えあったように、良い結果だったな。しかし、残念ながら、大学側は納得いかなかったようだ。」
「え?なぜですか?」
「う〜ん…これはあくまで憶測だが…おまえはインターハイに出て無いし、公式の記録では400mハードルの実績も少ないから…とにかく、一般試験を受けて欲しいとの事だ。」
「一般試験…」

なぜか、その時の僕にとっては先生がおっしゃった以上に大きなショックを感じた。
インターハイに出ていないという言葉が頭のなかに何度もリフレインされた。

悔しい。
インターハイに出ていないだけで、ダメなのか…実技は一位だったじゃないか…何のための実技試験だったんだ…
バカバカしい。

この出来事が、自分の大きな決断のきっかけとなった。
これまでの陸上の経験を生かして、自分の体を資本とした新しい道を極めようと思った。
根性だって、忍耐だって、そこら辺の奴等には負けない。
悔しさも、苦しさもこれを超えるものなんて無いだろう。

そして、3月14日の卒業式の次の日、僕は深夜バスに乗って、朝6時に東京駅の八重洲口に降り立った。
見渡すと、目の前にはきらきらと朝日に照らされ輝くビル群。
田舎とは全くの別世界。

ここで、新たな夢を叶えるのだ。
これから起こる未知の出来事に胸膨らませていた。

俺は役者になる。

自分の才能を見極めて、新たな才能に気付く事も、自分の一つの才能だと思う。
一つの道を極める事が美徳とされるならば、新しい才能にチャレンジする事も美徳とされてもいいだろう。
但し、とことんまでやり切ってからの話だが。

これからも、涙が枯れるほど悲しみ、心が張り裂ける程緊張し、踊り狂うほど楽しみたい。
それが僕の生き方だ。

出典:Kaname’s Cafe